また出かける時には八戸の辺りを走りたい。

昨年の2012.4.3-4.28/凝るとゆく/この旅で一番気になったのが八戸ナンバーの車だった。

青森から下道で八戸へ向う途中三沢基地にも寄りたいと三沢基地を目指す。はじめての道は畝畝と山間を走る。折しも山々は新緑の中に白い花を付けたように遠目にはみえるがアカシアだろうか。混交林が美しい。

三沢基地航空自衛隊と米軍との共同使用基地。軍用機の騒音がどの位なのか、また周辺環境はどのようなものか。>北海道は朝鮮ともロシアとも近く、国籍不明機の領空侵犯は日に何十回とあり、その捕捉からスクランブルまで全てをアメリカ軍の青森県三沢基地に依存している。<とかって聞いていた。


三沢基地は長靴の底の辺りのような小川原湖と海に挟まれていた。
基地の様子がもう少し見えるのかと思ったが俄に出かけたものには窺い知る事は出来なかった。
周辺の道を走ってみても広大静かであった。そのうちに寺山修司記念館に遭遇した。
あまりの建物外見に入るのを止めてしまった。見ていると手提げ鞄に元原のコピーがぎっしり詰まってるいるかのようだった。いったいこのデザインは誰がしたのかと、、、、粟津和夫だった。


基地の様子が見える所はないかと地元の方に聞いてみる。<基地は見えないように出来ている>と。なるほどそうかと納得。話を伺っていると飛行機の音がする。低空をそう大きくない音で旋回している。人の眼には新緑の美しい葉の間に円盤を乗せた飛行機が飛ぶ。カメラは新緑の美しい葉を飛ばしてしまった。いや私の技術がが正しい。




E-2C早期警戒機そう大きくはないが定員は5名。


私の20代後半に昭和51年(1976年)ベレンコ中尉操縦の 旧ソ連軍戦闘機ミグ25が低空から日本領空に侵入し函館空港に亡命したミグ25亡命事件があった。この事件が低空から侵入したミグ25を補足する事が出来ないことを証明することになったためにE-2C早期警戒機の導入になった。


基地に関する地元の感覚も聞いてみた。三沢基地は、<昭和13年に旧日本海軍が飛行場の建設に着手し、昭和17年三沢海軍航空隊の飛行場として開設>されている。住民感覚として沖縄の米軍基地機能を一部受け入れ可能だろうかと聞いてみた。<三沢基地はミサイルの実弾訓練の出来る基地なので可能だろう>と。


三沢は青森県だが南部藩であったので趣きは青森とは別様。
5月24日から6月10日までに喜茂別に帰る短い旅なので八戸を見るのを止めて上道を目指す。