2010.11.28 多賀サービスエリアから


東京から大阪に向かう途中で軽油の給油できるサービスエリアを探す。
新しくできた多賀サービスエリアがいいと勧められる。
多賀サービスエリアは大きいし、立派。『ホテルのようなトイレ』と出てくる人が言っていた。

そのまま走っても大阪は夜になるので、ここで仮眠することにする。

後半の旅で課題になったのがお風呂、洗濯だったが、実はここには全て揃っていたのだが、
気付かずに通過してしまった。

ハイウェイホテルも設置されていた。

ハイウェイホテルは迷ったけれど、凝ると一緒に仮眠することにする。

多賀サービスエリア横に、胡宮神社で『石造観世音立像の公開と紅葉ライトアップ』の看板があった。
足下のライトに導かれて参道を上がっていく。おいしそうな草餅が売られていた。





http://puchitabi.jp/09/11/post-4869.html
胡宮神社は

胡宮神社の創建は聖徳太子伝説もあり定かでないが、そのルーツは青龍山(せいりゅうざん)の磐座に対する巨石信仰まで遡る。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)で多賀大社と同じ。聖徳太子開基の天台宗の寺院、敏満寺(びんまんじ=戦国時代に兵火を受け廃寺に)の鎮守社であったので、敏満寺の旧境内地に建っている。

石造観世音にはたどり着かなかったが、翌日敏満寺遺跡群の案内板をみる。





敏満寺は『滋賀県埋蔵文化財学習ノート』によれば
http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2166/index.html

 敏満寺遺跡は、鈴鹿山地と湖東平野の境目に聳(そび)える独立峰「青龍山」(せいりゅうざん)および、北に舌状(ぜつじょう)に広がる台地上に立地する、縄文時代から近世に至るまで続く複合遺跡です。
 遺跡の中心は、天台宗寺院「敏満寺」に関する遺構群です。
 敏満寺は、平安時代伊吹山寺の僧三修(そうさんしゅう)が開基したと伝えられます。東大寺再建の大勧進職(だいかんじんしょく)として活躍した俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)も、この寺を非常に重視していたようで、建久9年(1198)には、金銅五輪塔(こんどうごりんとう)(重要文化財)1基を寄進しています。その後も敏満寺は発展を続け、坊社が100余りもあったと伝えられますが、永禄5年(1652)浅井氏の焼き討ちに遭い、勢力を落とし、その後、織田信長に抵抗して敗れ、寺勢を回復することなく現在に至っています。


 敏満寺遺跡の伽藍の中心は、名神高速道路建設の際に、大部分が破壊されてしまい、その詳細については不明の部分が多く残されています。しかし、青龍山の頂上付近には、敏満寺建立に先立つ信仰の対象としての「岩磐」(いわくら)があり、その麓には13世紀〜16世紀まで続く、現存するものとしては、我が国最大規模の中世墓群である「石仏谷遺跡」(いしぼとけだにいせき)が所在します。また、敏満寺は、その強大な勢力と経済力を背景に、中世の終わり頃に軍事的な性格を強めますが、これを物語る敏満寺城の遺構が、多賀サービスエリアの中に残されています。この他、発掘調査により、寺院に関する坊院の跡や、様々な物を生産していた工房の跡なども見つかっており、寺院を中心とした中世都市の有様が蘇りつつあります。