積丹農協参事 西崎量一さんと

喜茂別町長選挙に出馬したのが、私の始めての選挙である。随分昔になるが1989年7月の参議院選挙.全国区比例区で全国にミニ政党が産まれた時期に反原発を掲げた「みどりといのちのネットワーク」がある。反原発で言えば「原発いらない人々」と2つにあい別れる事になって、その後の反原発運動にも影響がでた。「みどりといのちのネットワーク」は比例1位で積丹農協参事西崎量一さんを候補者としていた。東京で中心になったのがかって水俣の相思社の理事だった柳田、水俣出身の徳江、大地の会、四ツ葉共同購入会などであった。北海道ではノームミニコミセンターの西村英樹。なにか出来る事があればと駆けつけたのが、私は3歳、平野さんは2歳の男の子を抱えた私は40歳平野さんは30代後半になった2人だった。私たちは2人、毎日選挙カーに乗ってうぐいす譲になり、辻々で西崎さんと共に消費者として、母親としての思いを語る街宣活動。積丹余市から農家の仕事を休んで、何台もの車にびっしり乗り込んで一諸に選挙活動をして下さった、熱い選挙だった。積丹農協は個々の負債が多額にのぼる中、有機、低農薬農業に取り組み、市場、生活クラブ、スーパーとの間で安定した農業へ転換してきた。その中心が西崎量一だった。相方と子どもたちは、道営の公営住宅群18棟に全てビラ入れしてくれたし、今思うと、笑い話になるが、小学2年の2番目の子は学校の前で担任の先生にビラを渡すという家族選挙だった。東京での総括会議は組織を残すか残さないか、負債を負ったお金の処理をどうするかで激論になった。担ぐだけ担ぎ、地元に多くの負担をしいたし、運動体としても、言えないほどの問題を垣間見せた。私はごく普通の市民が趣旨に如何に向き合って選挙戦を戦ったのか、西崎量一を支えた地元を伝えることになった。その後の地元の支援も厚く、組合長には頭が下がった。西崎さんはオーガニックマーケット北海道を設立し、有機低農薬の農業の定着と全国への販売を開始する。余市での最後の集いで「逆境には強い男だ」との西崎評の言葉通りだった。10年後、「10年前の選挙のことを振り返っている」と札幌の病院からの年賀状が最後のたよりだった。

西崎量一は生きつづけています。