農との出会い

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お茶の無農薬栽培をする三重県度会郡度会町の豊翠園のお茶を共同購入して30年近くになる。喜茂別に移り住んでからは取っていなかったのだが、久しぶりに取ってみる。
Webでも販売していて社長だった鳥羽平五さんは会長職に、いまはお米を作っているのだそうだ。30年前は昭和53年になる。当時住んでいた石狩はまだ、石狩町で、人口は7000人ほどだった。花川北地区は北海道住宅供給公社が昭和48(1973)年3月から分譲を開始、「花畔(ばんなぐろ)団地」と呼ばれていた。

移り住んだ頃は、小さなスーパーが1件あるだけの、札幌のベットタウンだった。必要なものが手に入らないだけでなく、若い母親たちは”子供たちに安全で安心できる食べ物を”ということで、平飼の有精卵のたまご、天然酵母のパン、無農薬、低農薬の野菜と、、、、声を掛け合って共同購入のグループが出来ていった。

上の子が2歳の頃、吹雪の中を手を引いて、「水俣病患者家庭果樹同志会」の低農薬の甘夏みかん共同購入を町内の方と始めた。「財団法人水俣病センター相思社」が窓口となり、10ケースからだった。不知火海を取り囲む小高い丘陵は全てといっていいほどみかん山になっている。漁に出られなくなった患者さんたちが、低農薬のみかんを作り始め、水俣病に対する恐れさえ感じられるころに、母親たちはこの甘夏みかん共同購入していった。
ドキュメンタリー「水俣の甘夏」監督:小池征人1984年が伝える、http://www.independentfilms.jp/works/dvd_2-12.html
”除草剤を使ってしまった失敗を”この映画とともに、患者さんが全国にお詫びの行脚を行ったのだが、同志会会員にこの問題は大きくのしかかり、さらに、1989年全国的に安全安心な食べ物への関心の高まりから、相思社に対しても供給可能以上の注文がくる。水俣病患者家庭果樹同志会以外の他の生産者の甘夏を供給する”甘夏事件”がおきる。しかも、この購入された甘夏が古くからの共同購入を支えてきたグループに手渡された。まったく味の違うものだった。その結果、相思社の理事が総辞職、水俣病患者家庭果樹同志会も分裂し、10年ほど続いた私たちの共同購入も中止することになった。


その後、相思社とは2度3度出会う事になる。