タイ南部グラビでロッククライミング中に転落

北海道新聞に先生の死が報じられてから随分時間が経った。2008年12月9日である。
私が講義を受けた頃は40年以上前、先生は20代だった。早口で甲高い声で良く笑った。
1講目が如何に文献に当たってゆくかのガイダンスだった。入学間もない私たちにとって
突然投げ込まれる専門分野と向き合うために、百科事典から、文献目録の当たり方まで
捲し立てて終わった。しかし、このスタイルは卒業まで変わらなかった。斯くして多くの
青木ファンを生んだ。

今思えば、近松門左衛門「心中天の網島」が等身大に理解できたとは到底思えない。
還暦の今ならば追々解るであろうかとも。

夏休みの課題は「心中天の網島」を登場人物、場面を如何様にも細分化して分析することだった。
こんな課題を抱えながら、我が友は京都の旅に上り、私は2人分の課題の主要部分をこなすことになった。

これはなかなか難しく、同じ訳にも行かず違う視点で展開する事になったので、悪戦苦闘だったが
気が付けば夏休み全てを使うほど、打ち込んでいた。

友人の物が褒められたように記憶する。

大学ではどの科目も夢中になるほどの教授陣だったが、個人的に先生とのコンタクトを取る方ではなかった。
友人は青木先生の元に通っていて、ある時誘われるままお尋ねしたことがあった。
北16条の平屋の小さな教員住宅だった。隙間だらけの当時でも古い建物のまん中にストーブがあり、
そのストーブを四角く囲って先生の手作りの椅子と小さな机が付いていた。
北海道の人は考えない、言わばストーブをこたつに見立てたような風情だった。

私は話よりも住まいや暮らしぶりに関心が行った。やんちゃ盛りの男の子がいて障子はみんな穴が空いている
という具合。

山頂で結婚式、登った方に祝福されての結婚だったと話された。

我らにとっても先生にとっても授業が戦場であった。


そんな青木先生に最後にお会いしたのは、2001.1.15解体された「キノルド館」の保存を巡って
先生をはじめとして教授会の支援がいると転居された東区の住宅へ伺った時である。

大学側と膠着状態になった2000年末、「キノルド記念館を考える会」の主催する会合に出て、
出席された教授陣は新しい学科の先生たちであることに驚いた。
国文であれば、青木先生がいないのは何故なのかと。

探し当てたお宅の奥から変わらぬ先生が現れた。私は簡単に訪問の主旨を述べたが、
先生の対応も明快であった。山岳部顧問としてキノルド館を使い続けてきた先生にとって
「授業やサークルで使い続けなければ保存はできないと言い続けて来た。保存だけを言っても通じない。」と、、

各学科に青木先生のような方がいただろうと思う。その先生方が動かないようであれば結果は見えていた。
涙がはらはらこぼれ落ちた。

私が入学した頃の学長さまは牧野キク先生で、学長さまと呼ばれていた。
先生はいつもキノルド館横の通用口を通って大学校舎に入ってこられた。

入学間もない私は高校時代の鞄を下げて、隣の寄宿舎ソフィア寮から通っていた。
行き会った学長さまは「あなたは偉い。いい子だ。」と仰る。
怪訝そうにしている私を察して、「あなたは鞄を持っている。みんな持たなくなったのに。」また、
「あなたは偉い。いい子だ。」と仰って、私の手を擦って下さった。
その手がなんと驚いた事に、母の手よりもごわごわの働く手だったのです。
先生がいつもキノルド館横の通用口を通って大学校舎に入ってこられた意味がよく解ります。

細谷先生が「どの先生を忘れても学長さまは君たちから消えない」と言われたが学長さまだけでなく
どの先生も消えることは無く、いま、先生が先立たれた後にもそれぞれのなすべき道を示されている。


諏訪春雄通信 http://home.s00.itscom.net/haruo/sub36.html

諏訪春雄通信には、青木先生の奥さまの私信が付されている。郡司、諏訪先生のご講義を受けた一人である。

研究について見ると、いかにも青木先生らしい拡りである。

http://read.jst.go.jp/public/dt_ksh_002EventAction.do